~あの日から~語り継ぐ ⑩

「第10回 若妻の翼」

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あの日から⑩

 「若妻の翼」は公民館事業という位置付けで、菅野典雄館長(現村長)が担当で、団長でした。若妻の参加者は19人でした。1989(平成元)年9月26日に村を出発し、ドイツ、フランスを回って10月7日に帰りました。

 村に住むようになっても、仕事は南相馬市だったので、村の中に友達がいなかった。それがいっぺんに18人もできました。

 先日も当時の仲間と会いました。そのとき、話したんです。「ちょうど、チェリノブイリが爆発した後だったんだよね」「あのときは何も考えなかったね」と。私は「すでにドイツは風力発電をやっていた。新規の原発建設をやめました、という話を通訳の人がした」と言ったんです。

 原発問題は印象に残っています。もう一つは、買い物袋がドイツには全然なかった。ごみ問題です。女性の駆け込み寺「婦人の家」も訪ねました。「こんなこと考えなくてすむだけ、私たちは幸せだね」と言った記憶があります。

 一緒に行ってくれた日本青年館結婚相談所長の板本洋子さんが、スケジュールを考えてくれました。

 当時の村長は「無事、帰ってくれば、それでいい」と言ったんです。ところが、帰国すると菅野館長が「何か残した方がいい」と言ったんです。飯舘村から福島市に移って喫茶店「椏久里」のママをしている市沢美由紀さんが「私やる。だからクニさんやろう」と。

 本は「天翔けた 19妻の田舎もん」というタイトルで出版されました。七刷りまでいきました。本が売れたので、ベルリンの壁に桜の木を植えようというプロジェクトに加わって、苗木を20本送りました。

 板本さんが本の最後に書いています。

 「男に行かせたら報告書一枚で終わり。しかし、女に行かせたらこんなに効果があった。波及効果もある。安くつきました」

 (東京新聞 2014年5月19日掲載)

~あの日から~語り継ぐ ⑨

【第9回 飯舘村に住む】

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あの日から⑨

 夫は希望通り相馬農業高校飯舘校に異動になりましたが、最初は南相馬市に住みました。最終的には飯舘村に住むつもりだったので、子どもたちは飯舘村の幼稚園に行かせました。夫が原町から子どもを連れて幼稚園に行き、じいちゃん、ばあちゃんがスクールバスで送られてくるのを迎えに行きました。

 下の子が幼稚園に入る時、飯舘村の家を直して、おじいちゃんたちと同居しました。1987(昭和62)年9月のことです。

 農業といっても、農業だけでやっていけるほどの土地はないんです。飯舘村でも広い土地を持っている家はあまりないんじゃないですか。だから、普段は勤めて、週末農業という兼業農家が多い。

 おじいちゃんは若いころ、田子倉ダム(福島県只見町)を造ったり、東京五輪のころは地下鉄工事をやったり、と出稼ぎに行ってますね。

 獣のわなを作ってイタチを捕ったこともあります。ばあちゃんにいやがられてやめたんです。皮を売ったみたいですよ。

 50代ぐらいから山菜を育てたんです。私が何が悲しかったかというと、苦労して、工夫してやってきたおじいちゃんの宝がみんな駄目になったんじゃないか、と。それが気掛かりでしたね。

 89(平成元)年、村の広報紙に「第一回若妻の翼」団員募集のチラシが入っていました。10日間の欧州旅行です。新婚旅行に行っていなかった私は、海外旅行に行けると思ったんです。若妻ですから、年齢制限もあるし、このチャンスを逃したら、行けなくなるかもしれない。保健師の仕事は、年間スケジュールが決まっているんです。団員募集を見たら9月下旬で、都合が良かったんです。

 募集は20人。区長に頼まれたという団員が多かったんですが、私は自分で役所に書類を持って行ったんです。

(東京新聞 2014年5月14日掲載)

~あの日から~語り継ぐ ⑧

【第8回 結婚】

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あの日から⑧

 郡山市の高校を卒業後、宇都宮市にある国立栃木病院(現国立病院機構栃木医療センター)付属高等看護学院に入りました。母から「手に仕事を」と言われたこともあって、保健師になろうと思っていたんですが、実習に行って「こりゃ、つまらないなあ」と。それで国立病院の看護師を4年間しました。そのとき、宇都宮大学の大学院で学んでいた夫と出会ったんです。

 夫は飯舘村出身で「一人息子だから、帰らなきゃいけない」と言うんです。そのときは、なんで帰らなきゃいけないんだろうと、不思議でした。跡を継ぐとか、帰るとか。私にはそういう感覚がないんです。

 結婚後も仕事を続けろと、夫は言うんです。調べてみたら、飯舘村の近くでは大きな病院はなく、看護師として勤めるのは難しいのかな、と。それならもう一度、保健師を目指そうと思ったんです。不純な動機ですよね。

 1978(昭和53)年、私は福島県の保健師に、彼は県立高校の農業の教師に採用されました。二人そろって新採です。

 結婚式はその年の3月18日に挙げたんですが、夫の赴任場所が決まったのは、例年より遅くて、式の当日でした。「夫の勤務先の近くにするから心配するな」と言われていたんですが、私の勤務先が決まったのは20日ごろなんです。

 赴任地は、夫が岩瀬農業高校で、私が須賀川保健所(現県中保健福祉事務所)です。岩瀬農高は、須賀川保健所の管内にある高校なので、近いんです。赴任先が決まっていなかったので、新婚旅行は行けませんでした。

 福島県では初任地は出身地でないところ、という鉄則があるんです。3年後、飯舘村にある相馬農業高校飯舘校に異動になりました。私は一年遅れで、南相馬市にある原町保健所(現相双保健福祉事務所)に転勤しました。飯舘村は原町保健所管内です。

 (東京新聞 2014年5月13日掲載)

~あの日から~語り継ぐ ⑦

【第7回 名前にふさわしい自分に】

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あの日から⑦

 生まれは旧田村郡田村町、今は郡山市田村町です。JR水郡線が通っている町です。ここには守山城があって、小学校はお城の跡でした。

 三姉妹の三番目。女に生まれたのが嫌で嫌で
…。嫁(母)としゅうとめ(祖母)の問題をずっと見ていた。女の切なさというのか。母からはおまえが男だったら良かったのに、と何度も言われました。

 子どものころは、名前のクニがいやだった。漢字の名前でないので、親を恨んでいた。姉二人は漢字の名前で、最後に「子」が付いている。

 私が生まれたのは昭和20年代ですから、名前がカタカナで、子が付かない子は学年でもほかに一人しかいなかった気がするなあ。それくらい珍しかった。カタカナで子が付かない名前は、なんか古くさい感じ。それがいやだったんです。

 あるとき、母に聞いたら、父が勝手に付けたらしいんです。父はクニ子と付けたと言ったと言うんですけど、クニ子じゃなくて、クニだったんです。

 母は「まあ、国一番になるからいいべぇ」と言ったんだそうです。母から聞いた「国一番」が頭の中に残っていて、それにふさわしい生き方をしようかな、と。いつか、そんな自分がいましたよね。

 名前って、親が一生懸命考えて付けるじゃないですか。今は自己紹介で、クニという名前が似合う年になりました、と言うんです。

 保健師になってこだわったのが、性教育でした。子どもたちに、生きるということ、生まれるということを、どう分かってもらえるかって考えたんです。性別って、選べないじゃないですか。性教育では、私自身が女に生まれたのは損だとずっと思ってきた、ということから話を始めます。

 (東京新聞 2014年5月12日掲載)

~あの日から~語り継ぐ ⑥

【第6回 避難所で健康相談】

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あの日から⑥

3月20日に鏡石町役場に行きました。町内に避難所を2か所、設置していました。地震の被災者向けです。原発事故の避難者は(田村市)都路から一人かな。町の保健師に「ボランティアで手伝うよ」と言ったんです。押しかけ応援で、21日から避難所で健康相談をやりました。

保健所の職員はみんな、布団を持ち込んで仕事をしていると言っていました。ガソリンが足りないじゃないですか。しかも、原発の避難者が次々にやって来るんです。その人たちの放射線検査をしていました。

全国健康保険協会(協会けんぽ)から「県から応援を頼むと言ってきたので、28日から仕事として避難所に行ってください」と連絡がありました。避難所で、双葉郡から避難してきた人たちの姿を見ました。お年寄りが本当に何もすることがなくて、という状況を。

3月30日、国際原子力機関(IAEA)が飯舘村の土壌汚染は避難基準を上回っていると発表したんです。枝野官房長官は31日、避難の必要はない、と言ったんです。本当に安全なのか、安心できるのかは分からなった。

おばあちゃんからは「死んでもいいから、飯舘に帰る」と言われた。おばあちゃんはテレビも見ないで、家の中でじっとしている。おじいちゃんは校長住宅の庭を畑にして、イモや豆を作った。それから「することがねぇなぁ」と。

両親をどうするかを考えるとき、避難所の人たちのことが頭にあった。二人の様子を見ていたら、飯舘でもさすけねえな(問題はない)と思った。

4月2日、車で飯舘村に戻りました。11日になって国は、「飯舘村は1か月以内を目安に全員避難」と言いました。

どうして避難区域を拡大したのか。根拠を知りたいのですが、今もわかりません

(東京新聞 2014年5月9日掲載)

~あの日から~語り継ぐ ⑤

【第5回 上昇する飯舘の放射線量】

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あの日から⑤

 飯舘村の放射線量は、3月15日から上がりました。毎日、ニュースを見ていると、40いくつから30いくつには下がったけど、他の地域に比べると、歴然として高い。

 夫は3月末で定年でした。定年後、飯舘村にある相馬農業高校飯舘校での勤務を希望していましたが、辞令は出ていません。両親が心配でも、私たち自身がどこに行くのか決まっていなかったのです。

 それが16日になって「退職を延期していいか」と電話があった。17日に校長として残ることが決まりました。期間は分からないけど、定年延長です。それで「明日、迎えに行こう」と。18日、二人で飯舘村に戻りました。

 翌朝、飯舘村の広報車が回っていて「栃木県鹿沼市が受け入れてくれるので、希望する住民は申し出てください。バスが出ます」とアナウンスしていました。村に避難していた南相馬市や浪江町の人らと一緒です。自主避難という形で、住民の避難も始まっていたんです。

 両親には「線量も上がっているし、孫たちも心配しているからお父さんの所に一緒に行こう」と言った。おじいちゃんは素直に言うことを聞いてくれたが、おばあちゃんは「オラ、死んでもいいから行がねぇぞ」って。それで「ここにはいられなくなったんだから、とにかく行くべ。ここにはいられないんだ」と。要するに、ウソをついたんです。

飯舘村の空間線量が高かったので、もう、出た方がいいかなと思ったんです。息子に言われた「殺す気か」という言葉は強烈でした。

うちは3月末まで、地区の班長だったんです。引き継ぎは終わっていたので、次の班長さんにお願いして出発しました。昼過ぎに鏡石町に帰りました。おじいちゃんたちにとっては、初めての町です。

 (東京新聞 2014年5月6日掲載)

~あの日から~語り継ぐ ④

【第4回 じいちゃんを殺す気か】

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あの日から④

 3月11日の夜は、いつでも外に飛び出せるように服を着て、ラジオを聞きながらこたつで寝ました。阪神大震災のとき、保健師として応援で行った経験があるので、しばらくはパジャマは着なかったですよ。

 12日朝、原発から10キロ圏内に避難命令が出た、というのをラジオで聞きました。ご飯の準備をしながら「お父さん、大変だよ。とうとう、避難命令が出たよ」と言ったんです。

 以前、原発立地町を管轄する保健所にいたので、一週間ぐらい研修を受けているんです。だから、避難命令がでるのは、原発の中で何か起きている、ということだと思いました。「原発で爆発が起きた」こともラジオで聞きました。

 でも、飯舘村が心配だとは少しも思いませんでした。気になったのはガソリンだけです。前日断られたスタンドでガソリンを10リットル入れました。

 13日、私の車に夫も乗って鏡石町に戻りました。いつもより、ちょっと車が多いかな、と思ったけど、村の中に避難所ができ、みんなが炊き出しをやっているなんて、思ってもみなかった。

 校長住宅についたのは午後9時です。テレビをつけて、初めて相馬市の津波を見ました。福島県に津波がくるなんて思ってもいませんでした。

 私は全国健康保険協会(協会けんぽ)で非常勤の保健師の仕事をしていました。14日は、ある会社の健康相談に行く予定だったんです。リーダーから「明日は自宅待機で」とメール来ました。それで、14日、2時間待ってガソリンを20リットル入れました。飯舘村までギリギリ往復できるぐらいです。15日には友人の紹介で給油でき、満タンになり、ほっとしました。

 15日から飯舘村の放射線量が上がってきました。息子から「じいちゃん、ばあちゃん殺す気か」とメールが来ました。

 (東京新聞 2014年5月5日掲載)

~あの日から~語り継ぐ ③

【第3回 停電 原始的に乗り切る】

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東京新聞③

 うちの前でガソリンがなくなりかけていることを示す、黄色いランプがつきました。近くのガソリンスタンドに行きました。停電で手回しポンプ消防車にガソリンを入れていました。

 「ダメだ、ダメだ。緊急車両しかいれねぇぞ」と言われた。「ハイオクしかねぇぞ」と言うので、あきらめて帰ったんです。後から悔みました。ハイオクでも入れておくんだったと。

 うちに帰ってから、電気を全部つけてみた。電気もテレビも、何もつかない。これって停電、と思った。隣の家に電話したら「うちもつかないよ」。

 ラジオをつけたら津波のことを言っているんです。それで、相馬市で見た車の列は津波のせい、と気付いたんです。

 うちはIH(電磁調理器)なので停電だと料理ができないんで「七輪で火を起こしてくれる」と頼みました。うどんをいつもの2倍ぐらいつくりました。

 お風呂は五右衛門風呂なので、じいちゃんがたいたんです。本当はエコキュートをつけているんですが、五右衛門風呂の温かさがいいと、かたくなに給湯器のお湯を使わないんですよ。こたつは、炭ごたつで暖かかったです。原始的な生活のおかげで、寒くもなく、不自由はなかったですね。

 ラジオを聞いていても、三陸の方の話で、緊迫感はなかったんですよ。あっちの方で、あったんだよ、ぐらい。

 11日で大変だったのは、ガソリンスタンドで「緊急車だけだ」と入れてもらえなかったことと停電ぐらいだった。

 夫に電話してもつながらなかった。夜、夫から電話があった。「うちは大丈夫だ」と言ったんですが、夫は鏡石町から帰ってきました。鏡石町は地盤沈下や家屋倒壊があって、ひどかった。電話も通じないので、家長としての責任感で帰ってきたんです。13日の日曜日まで飯舘村にいましたが、とうとう、電気はつかないままでした。

 (東京新聞 2014年5月2日掲載)

~あの日から~語り継ぐ ②

【第2回相馬市の税務署へ向かう】

 地震の直後に車で家を出て、県道で相馬市の税務署に向かった。途中、道路に石がゴロゴロ落ちていましたね。大きな石が落ちているところが5か所ぐらいあった。幸い、落ちた石は反対車線に転がっていた。
その時思ったんです。プリンターが紙詰まりを起こさなかったら、これにぶつかっていたかもしれない。助かったわぁ、と。

 相馬市に入ったら、塀が倒れていたり、家が壊れていたり。税務署に着いたら、書類はメチャクチャに落ちていて、職員が右往左往しているんですよ。

 「すみません、確定申告の書類で」と言ったら「後で」と言われた。そこで「いやいや、廃業手続きはどうしたらいいんですか」と、相談したんです。手続きの紙をもらいました。ちゃんと応じてくれました。

 次に社会保険事務所に行きました。「国民年金の証明書がほしいんです」と言ったら「停電でパソコンが動かない」と言われて、初めて停電だと分かった。税務署でも電気はついていなかったんだけど、停電だとは思ってなかったんです。

 飯舘村を出るときから車のガソリンがギリギリだった。いつもガソリンを入れるスタンドが鹿島(南相馬市鹿島区)の国道6号にあるんですが、停電だと聞いたので、飯舘村に戻ろうと考えを変えました。

 帰りは、国道115号バイパスがすごい車だった。私が相馬に入ったころはまだ、津波は来てなかったんです。帰りは津波が来た後だった。でも、私はその車の列を見て、国道6号が地震でやられたと思った。津波は全然、考えてなかった。

 落石はどうなっているかと思いながら走っていたら、1時間半ぐらいの間に、なくなっていた。本当に驚きましたよ。後で、役場に行ってほめたんですよ。「見事に石がなくなっていた」って。

 (東京新聞 2014年4月30日掲載)

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東京新聞②

~あの日から~語り継ぐ ①

  2011.3.11 14時46分、東日本大震災発生。、3月15日飯舘村の放射線量上がる。 3月30日IAEA(国際原子力機関)が飯舘村の土壌汚染は避難が必要と発表。 4月11日枝野官房長官が計画的避難区域を予定していると突然発表。 4月22日計画的避難区域の指示。 6月4日幕川温泉に一次避難。 7月2日福島市松川町の借上げ住宅に落ち着くと、ここまでの日は私にとって特別な日となって、3年を過ぎた今も鮮明に覚えています。しかし、これも時間とともに薄れてしまうのかも知れない。嫌な思い出には封印をしたいところだが、一方では、この避難のもたらした功罪をいつかの時点で検証してほしいと思っている。そのためにも、自分の行動をまとめておきたいと思っていたら、東京新聞からチャンスをいただきました。4月29日から6月4日まで20回にわたる連載「あの日から~福島を語り継ぐ~」に登場しています。

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東京新聞①

【第1回 飯舘村で震災に遭う】

 東日本大震災の前日、2011年3月10日から福島県飯舘村に帰っていました。当時、夫が県立岩瀬農業高校の校長で、鏡石町の校長住宅に住んでいました。自宅には、じいちゃんとばあちゃんがいました。

 私は前年6月まで自営業をやっていて、15日までに確定申告をする必要があったんです。11日に相馬市にある税務署へ行く予定でした。夜中までかかって月別の整理をしました。それから寝たんです。

 11日は午前中に見直して、印刷。午後2時までには家を出ようと考えていたんです。そうしたら、プリンターが紙詰まりを起こしてしまって。頭に来たんですが、なんとか直して、やっと印刷が終わったのが2時40分ごろです。書類で足りないものがあった。控除のための国民年金の証明書。廃業手続きについても、税務署で聞かなければいけなかった。だから、提出は無理と分かっていた。それでも、書類をまとめて、さあ、税務署に行くぞ、という時にガタガタッと来たんです。2階にいたので、激しく揺れました。

 確定申告の書類は完成していないわけです。プリンターが壊れたら、困るんです。だから、揺れている間、必死になってプリンターとパソコンを押さえていました。5分ぐらいは揺れていましたね。

 ひどく揺れたんですが、うちは何事もなかったんです。お隣のうちの人も元気でした。出がけに見ると、庭の石が一つ、ごろんと落っこちてました。それを見て結構、強かったんだな、と思ったぐらいです。揺れがおさまってから、車で相馬市へ行ったんです。

 出るのが遅れたので、税務署に着くのは午後4時ごろだろうと思いました。それでも廃業手続きの話が聞ければ、と考えたのです。

 (東京新聞 2014年4月29日掲載)