~あの日から~語り継ぐ ①

  2011.3.11 14時46分、東日本大震災発生。、3月15日飯舘村の放射線量上がる。 3月30日IAEA(国際原子力機関)が飯舘村の土壌汚染は避難が必要と発表。 4月11日枝野官房長官が計画的避難区域を予定していると突然発表。 4月22日計画的避難区域の指示。 6月4日幕川温泉に一次避難。 7月2日福島市松川町の借上げ住宅に落ち着くと、ここまでの日は私にとって特別な日となって、3年を過ぎた今も鮮明に覚えています。しかし、これも時間とともに薄れてしまうのかも知れない。嫌な思い出には封印をしたいところだが、一方では、この避難のもたらした功罪をいつかの時点で検証してほしいと思っている。そのためにも、自分の行動をまとめておきたいと思っていたら、東京新聞からチャンスをいただきました。4月29日から6月4日まで20回にわたる連載「あの日から~福島を語り継ぐ~」に登場しています。

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東京新聞①

【第1回 飯舘村で震災に遭う】

 東日本大震災の前日、2011年3月10日から福島県飯舘村に帰っていました。当時、夫が県立岩瀬農業高校の校長で、鏡石町の校長住宅に住んでいました。自宅には、じいちゃんとばあちゃんがいました。

 私は前年6月まで自営業をやっていて、15日までに確定申告をする必要があったんです。11日に相馬市にある税務署へ行く予定でした。夜中までかかって月別の整理をしました。それから寝たんです。

 11日は午前中に見直して、印刷。午後2時までには家を出ようと考えていたんです。そうしたら、プリンターが紙詰まりを起こしてしまって。頭に来たんですが、なんとか直して、やっと印刷が終わったのが2時40分ごろです。書類で足りないものがあった。控除のための国民年金の証明書。廃業手続きについても、税務署で聞かなければいけなかった。だから、提出は無理と分かっていた。それでも、書類をまとめて、さあ、税務署に行くぞ、という時にガタガタッと来たんです。2階にいたので、激しく揺れました。

 確定申告の書類は完成していないわけです。プリンターが壊れたら、困るんです。だから、揺れている間、必死になってプリンターとパソコンを押さえていました。5分ぐらいは揺れていましたね。

 ひどく揺れたんですが、うちは何事もなかったんです。お隣のうちの人も元気でした。出がけに見ると、庭の石が一つ、ごろんと落っこちてました。それを見て結構、強かったんだな、と思ったぐらいです。揺れがおさまってから、車で相馬市へ行ったんです。

 出るのが遅れたので、税務署に着くのは午後4時ごろだろうと思いました。それでも廃業手続きの話が聞ければ、と考えたのです。

 (東京新聞 2014年4月29日掲載)