~あの日から~語り継ぐ ⑳

4月29日から始まった連載も、いよいよ最終回になりました。

4月初めに取材依頼があり、断りながらも、これはおもしろいことになりそうだと、どこか楽しんでいる私でした。数回の取材というよりはお喋りで日頃の毒舌が、そのまま紙面に出てくるし、秘密にしていた話もうっかり乗せられて、話してしまって、紙面をみてあわてたりということもありました。

一番心配したのは家族の反応でした。それが意外にも好評で、あの日以来の、その時々の思いを、今になってよくわかったとお礼を言われたりもしました。

 それでも、福島が…、飯舘が…忘れられてしまうことを恐れていながら、私の中の記憶も悔しいけど、すこしずつ薄らいできている現実の中で、記憶を記録しようとして思っていたところに、この話をいただきました。最終回を迎えてみると、記憶を記録することの手間を少し省けるかしらと思い、その分を家族版と仲間版をまとめてみたいと思っております。そんなことを、このコーナーを使いながら発信していこうと思います。

「第20回 ドイツで飯舘村を考える」最終回


img005

 8日からドイツに行くんですよ。「若妻の翼」欧州旅行をしたのがきっかけです。帰国後、出版した「天翔けた19妻の田舎もん」の利益で、ベルリンの壁に苗木20本を送りました。その桜を見に行こうというのです。

 総合福祉施設「ベーテル」にも行きます。3月30日に福島県文化センターで講演会があり、宇都宮大学名誉教授の橋本孝先生がベーテルの話をしたんです。それを聞いて、行ってみたいと思ったんです。友達も同じことを考えて、すぐに調べたんですよ。「クニさん、ベルリンから特急で2時間ちょっとで行けるよ」と言うんです。

 「飯舘はこれから年寄りしかいない。どういう街づくりをするか。そのヒントが得られると思う」とみんなに言ったんです。

 ベーテルには、病院や老人施設などがあり、福祉のモデルとされています。教会がナチスの安楽死政策から障がい者を守ったんです。戦後、復興のためにカーネギー財団が100万ドル(3億6千万円)もの寄付をしようとしたら、断ったんですね。一人の大金よりも、たくさんの小さなお金を集めることが大事だと。今では、財団からもらえるはずだった100万ドルを上回る寄付を集めたといいます。

 私は飯舘の未来は、これだと考えたのです。みんながずっと応援し続けてくれる、保養の場所を目指していけばいいと思うんです。各地でサービス付の老人施設が増えていますが、飯舘村にも必要だと思うんです。村の施設は今、職員が辞めていくから入所者が減っているんです。入所希望者はいるんです。

 ドイツからは15日に帰ってきます。参加者は10人です。19人のメンバーのうち10人ですから、多いでしょ。帰ってきたら本の第二弾を書くように言われているんです。「若妻の翼」でお世話になった日本青年館の板本洋子さんらが応援する、と言ってくれているんです。=おわり

 (東京新聞 2014年6月6日(金)掲載)

 楽しんで読んでいただきましてありがとうございました。

~あの日から~語り継ぐ ⑭

「第14回 松川町で生活へ」

img005

あの日から14

 勘はわるくないなぁ、と思っています。

 2010年12月8日、在宅保健師の研修で山形に行ったんです。新幹線の中で、福島市松川町に住んでいる先輩が「うちの夫がね、じいちゃんが使っていた畑を荒らしていて、近所に悪いのよね。誰か借りてくれないかしら」と言うんです。夫に話したら「借りる」と。

 そもそものきっかけは、30年前なんです。新婚時代、松川町を通って飯舘村に車で帰ったんです。そのたびに夫が「このあたりの土はいいんだよな。将来、ここで何かつくりたいな」と言うんです。飯舘村にも親から受け継ぐ土地があるのに、土地を借りる気なのかしら、と思っていたんです。

 12月29日に畑を見せてもらったら、夫は「借りる」とううんです。なぜだと思います? そこから見た安達太良連峰が気に入ったんです。弁当を持って、何かやりながらスケッチでもしたらいいな、と思ったと言うんです。

 11年4月11日。突然、飯舘村は1か月以内を目安に避難、となったんです。翌12日に「もっと畑を貸してください」と頼みに行く予定だったんです。

 そして、そのときに「畑の近くに家も探してください」とお願いしました。16日にはもう見つかりました。桑畑の中の平屋の一軒家です。空間線量は福島市でも低いほうでした。飯舘村の家と比べると、部屋は半分以下で、狭いですが、アパートよりはいいと思いました。家賃は月5万円です。

 築40年以上たっていたので、借り上げ住宅の条件には合わなかったんです。うちが借りる契約をしたのが、制度ができるより早かったんです。

 夫が自分が開発したジャガイモの新品種「イータテベイク」やカボチャの「いいたて雪っ娘」の栽培を飯舘村で始めていました。松川町で畑がみつかり、継続できる見通しが立ちました。私にはちゃんと神様がついているんです。

 (東京新聞 2014年5月26日(月)掲載)

~あの日から~語り継ぐ ⑮

「第15回 私に一番、遠い仕事」

img005

あの日から15

 飯舘村の教育委員を頼まれたのは10月末です。

 2011年秋。土曜日の夕方でした。菅野典雄村長と奥さんがうちに来たんです。夫に「教育委員を頼みたい」と。夫は「フルタイムで(高校に)出ているからダメだ」と断りました。公務員は教育委員にはなれないんです。

 「そうか、どうすっかなぁ」と村長が言うと、奥さんが「先生がダメなら、奥さんがいるんじゃない」。

 「えーっ」て感じです。「(役所に)文句は言えるけど、教育委員というのは私に一番、遠い仕事です」と断ったんですよ。そうしたらうちの人が言ったんです。「村長が困ってるんだから、手伝ってやればいいべぇ」。そして「なあ、じいちゃん、俺たちも協力するよな」と。家族が了解したんで、断る理由がなくなったんです。

 仕事は「月に1回の定例会だけだ」と村長は言ったんです。最初の会議で「定例は月1回ですが、臨時はしょっちゅうあります」と言われました。教育委員会の定員は5人で、3人以上出ないとい流会です。ところが委員は以前から3人なんです。欠席すると、成立しないんです。協会けんぽ(全国健康保険協会)の仕事は辞めました。

 他の二人は教育長と教育委員長です。3人しかいないので、私も教育委員長の職務代理者なんです。実際には、委員長は司会進行ですし、教育長は行政側なので、何か言うのは私だけなんです。

 最初の臨時委員会は翌年春、校長・教頭の人事でした。「この校長はいや、という拒否権はあるんですか」と聞いたんです。そうしたら「それはダメです」と笑われました。「じゃ、何のための臨時委員会ですか」と言ったんですが、こういう嫌味を言う委員はいないでしょうね。

 半分、ボランティアですよ。報酬は定額で月2万円ちょっとです。半年まとめて支払われます。交通費もありません。

 (東京新聞 2014年5月27日(火)掲載)

~あの日から~語り継ぐ ⑬

「第13回  幕川温泉に避難」

img005

あの日から13

 避難先がなかな、決まらなかったんです。飯舘村はホテルや旅館、あるいは借り上げ住宅に入るようにしていたんです。

 やっと、役場で「奥土湯温泉ならあります」と言われたんです。「宿が2軒あって、そこなら今から行けます」と。私の頭の中にあったのは福島市の土湯温泉の中を流れている川の奥にあるのかな、と思ったんです。

 2011年6月4日、避難所に指定された幕川温泉に向かいました。山の中で、秘湯の一つです。初めて行きましたが、本当に温泉があるのかな、と思うほど狭い道を走り続けた先でした。

 そのとき、じいちゃんたち二人があの世に行くときは、近所の人は誰もいないんだと思ったんです。見送ってくれる近所の人がいないと。絶対、この二人を帰村させなきゃいけないと思ったんです。

 飯舘村は菅野典雄村長が帰村まで「2年」と言っていました。私は3年かかると思ったけど、もう、3年たっちゃいましたよね。

 人間、目標がはっきりすれば我慢できるでしょ。その後、延長するのはまだ、我慢できる。でも、最初から10年と言われるとねぇ。村長が2年と言ったことを、うそつきという気はないですよ。村にはそういう人もいますけどね。長いと目標にならないんですよ。今回のことで、村長は悪い判断はしていないと思う。

 懇談会などで「目標を示してください」というと、国から来た人たちはのらりくらりした答えで、はっきり言わないんです。

 望みをどこに置くか、ということで、飯舘村に帰れないことはないと思った。

 幕川温泉は飯舘村に住んでいた人の避難所なので、じいちゃんとばあちゃんと私の3人が避難したことになっています。夫は鏡石町に単身赴任していたので、温泉に泊まるときは自費でした。夫は精神的賠償ももらっていないんです。

 (東京新聞 2014年5月23日(金)掲載)

~あの日から~語り継ぐ ⑫

「第12回 幕川温泉まで」

img005

あの日から12

 2011年4月22日、村全体が計画的避難区域になりました。約1か月の間に避難するということでした。

 3月30日に国際原子力機関(IAEA)が飯舘村の土壌汚染は避難基準を上回っていると発表したのに、枝野官房長官は「避難の必要ない」と言ったんです。それが3週間以上たって避難しろ、となったのです。

 私はそのころ、週に2回、鏡石町と飯舘村を往復していました。帰るたびに村役場に行ったんです。でも、病気の人とかが先じゃないですか。うちは元気な老人だったので、5月末になっても避難先が決まらないんです。

 同じ行政区の人がいるところに避難させたかったんです。でも、みんながどこに避難するのか、役場がどこに移るのか、が分からなかった。1か月をめどに避難と言われたのに、こんなに遅れていいんだろうか、と思った。結局、福島市の幕川温泉に避難する6月4日まで、じいちゃんたちは飯舘村にいました。

 不便だったのは水です。うちは沢水を引いています。村からペットボトルが配給になっていました。じいちゃんたちに「うちの水は飲むんじゃないよ」と言いました。でも、「間違って飲むこともあるんだぁ」と言ってました。

 家庭菜園が全部、駄目になったんです。飯舘村に帰るときに野菜を買って行きました。有機農業をやっていた知り合いが、ハウス栽培のブロッコリーを作っていて、捨てるのがもったいない、って。じいちゃんが「どうする」と言うので「かわいそうで捨てられない」と言って食べましたね。作っている人の涙をみたらねぇ。

 野菜は十分、水洗いして、ゆでれば大丈夫、という話が出ていましたよね。そんなに量を食べなければ大丈夫、という判断をしていました。でも、うちの山菜はどれ一つ食べなかった。あれは悔しかったな。

 (東京新聞 2014年5月21日(水)掲載)

~あの日から~語り継ぐ ⑪

「第11回 ガイガーカウンターが必要」

img005

あの日から11

 テレビのテロップで、飯舘村の空間放射線量の数字が出てくるんですが、それは我が家の数値ではない。帰るにしたって、安全なのか分からない。だから、わが家の放射線量を知るために線量計がほしかった。3月中から息子二人に探してと、と言ったんです。

 次男は分析機械メーカーに勤めています。ガイガーカウンターがあると思って「会社の送ってもらったんでは、あんたの立場が悪くなる。何とか、手に入れて」と言った。「国産はないが、ウクライナ製なら」という返事が来たんです。品物は2週間で日本に来たが、税関がなかなか通らなかった。みんなが線量計持つと、都合悪い人がいるんじゃないですか。そう感じました。私の手元に来たのは5月1日でした。

 長男が4月20日ごろ、線量計を持ってきたので、飯舘村に線量を測りに行きました。うちの山菜畑で9(毎時9マイクロシーベルト)を超え、一番高かった所は10を超えていた。

 自宅は飯舘村の数値として公表されている3.8と、それほど違わなかった。だから、わが家の線量もテロップと同じぐらいと分かった。体温だって、熱っぽいではダメで、何度あるかが大事だ。そういう考え方をするのは、昔受けた教育が役立っているんです。

 「クニさんって、理系ですか」と聞かれることがあるんです。私は「人のうわさ話は信用しない。自分で確認したもの、データを信用します」と話す。家族を守るためには、そうしなければいけなかった。

 わが家で採れた山菜も調べています。ウルイが2012年にはND(検出限界以下)だったんです。料理して出したら「いやぁー、たべられるんだなぁ。飯舘に帰ったみたいだ」とじいちゃんは言ったんです。

 検査をする習慣づけは大事だと思う。役場は「山菜を採るな、食うな」と言っているだけ。村が調べて、基準値以下だったら「食べたい人は食べる」としたらいい。

 (東京新聞 2014年5月20日(火)掲載)