~あの日から~語り継ぐ ⑤

【第5回 上昇する飯舘の放射線量】

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あの日から⑤

 飯舘村の放射線量は、3月15日から上がりました。毎日、ニュースを見ていると、40いくつから30いくつには下がったけど、他の地域に比べると、歴然として高い。

 夫は3月末で定年でした。定年後、飯舘村にある相馬農業高校飯舘校での勤務を希望していましたが、辞令は出ていません。両親が心配でも、私たち自身がどこに行くのか決まっていなかったのです。

 それが16日になって「退職を延期していいか」と電話があった。17日に校長として残ることが決まりました。期間は分からないけど、定年延長です。それで「明日、迎えに行こう」と。18日、二人で飯舘村に戻りました。

 翌朝、飯舘村の広報車が回っていて「栃木県鹿沼市が受け入れてくれるので、希望する住民は申し出てください。バスが出ます」とアナウンスしていました。村に避難していた南相馬市や浪江町の人らと一緒です。自主避難という形で、住民の避難も始まっていたんです。

 両親には「線量も上がっているし、孫たちも心配しているからお父さんの所に一緒に行こう」と言った。おじいちゃんは素直に言うことを聞いてくれたが、おばあちゃんは「オラ、死んでもいいから行がねぇぞ」って。それで「ここにはいられなくなったんだから、とにかく行くべ。ここにはいられないんだ」と。要するに、ウソをついたんです。

飯舘村の空間線量が高かったので、もう、出た方がいいかなと思ったんです。息子に言われた「殺す気か」という言葉は強烈でした。

うちは3月末まで、地区の班長だったんです。引き継ぎは終わっていたので、次の班長さんにお願いして出発しました。昼過ぎに鏡石町に帰りました。おじいちゃんたちにとっては、初めての町です。

 (東京新聞 2014年5月6日掲載)

~あの日から~語り継ぐ ④

【第4回 じいちゃんを殺す気か】

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あの日から④

 3月11日の夜は、いつでも外に飛び出せるように服を着て、ラジオを聞きながらこたつで寝ました。阪神大震災のとき、保健師として応援で行った経験があるので、しばらくはパジャマは着なかったですよ。

 12日朝、原発から10キロ圏内に避難命令が出た、というのをラジオで聞きました。ご飯の準備をしながら「お父さん、大変だよ。とうとう、避難命令が出たよ」と言ったんです。

 以前、原発立地町を管轄する保健所にいたので、一週間ぐらい研修を受けているんです。だから、避難命令がでるのは、原発の中で何か起きている、ということだと思いました。「原発で爆発が起きた」こともラジオで聞きました。

 でも、飯舘村が心配だとは少しも思いませんでした。気になったのはガソリンだけです。前日断られたスタンドでガソリンを10リットル入れました。

 13日、私の車に夫も乗って鏡石町に戻りました。いつもより、ちょっと車が多いかな、と思ったけど、村の中に避難所ができ、みんなが炊き出しをやっているなんて、思ってもみなかった。

 校長住宅についたのは午後9時です。テレビをつけて、初めて相馬市の津波を見ました。福島県に津波がくるなんて思ってもいませんでした。

 私は全国健康保険協会(協会けんぽ)で非常勤の保健師の仕事をしていました。14日は、ある会社の健康相談に行く予定だったんです。リーダーから「明日は自宅待機で」とメール来ました。それで、14日、2時間待ってガソリンを20リットル入れました。飯舘村までギリギリ往復できるぐらいです。15日には友人の紹介で給油でき、満タンになり、ほっとしました。

 15日から飯舘村の放射線量が上がってきました。息子から「じいちゃん、ばあちゃん殺す気か」とメールが来ました。

 (東京新聞 2014年5月5日掲載)

~あの日から~語り継ぐ ③

【第3回 停電 原始的に乗り切る】

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東京新聞③

 うちの前でガソリンがなくなりかけていることを示す、黄色いランプがつきました。近くのガソリンスタンドに行きました。停電で手回しポンプ消防車にガソリンを入れていました。

 「ダメだ、ダメだ。緊急車両しかいれねぇぞ」と言われた。「ハイオクしかねぇぞ」と言うので、あきらめて帰ったんです。後から悔みました。ハイオクでも入れておくんだったと。

 うちに帰ってから、電気を全部つけてみた。電気もテレビも、何もつかない。これって停電、と思った。隣の家に電話したら「うちもつかないよ」。

 ラジオをつけたら津波のことを言っているんです。それで、相馬市で見た車の列は津波のせい、と気付いたんです。

 うちはIH(電磁調理器)なので停電だと料理ができないんで「七輪で火を起こしてくれる」と頼みました。うどんをいつもの2倍ぐらいつくりました。

 お風呂は五右衛門風呂なので、じいちゃんがたいたんです。本当はエコキュートをつけているんですが、五右衛門風呂の温かさがいいと、かたくなに給湯器のお湯を使わないんですよ。こたつは、炭ごたつで暖かかったです。原始的な生活のおかげで、寒くもなく、不自由はなかったですね。

 ラジオを聞いていても、三陸の方の話で、緊迫感はなかったんですよ。あっちの方で、あったんだよ、ぐらい。

 11日で大変だったのは、ガソリンスタンドで「緊急車だけだ」と入れてもらえなかったことと停電ぐらいだった。

 夫に電話してもつながらなかった。夜、夫から電話があった。「うちは大丈夫だ」と言ったんですが、夫は鏡石町から帰ってきました。鏡石町は地盤沈下や家屋倒壊があって、ひどかった。電話も通じないので、家長としての責任感で帰ってきたんです。13日の日曜日まで飯舘村にいましたが、とうとう、電気はつかないままでした。

 (東京新聞 2014年5月2日掲載)

~あの日から~語り継ぐ ②

【第2回相馬市の税務署へ向かう】

 地震の直後に車で家を出て、県道で相馬市の税務署に向かった。途中、道路に石がゴロゴロ落ちていましたね。大きな石が落ちているところが5か所ぐらいあった。幸い、落ちた石は反対車線に転がっていた。
その時思ったんです。プリンターが紙詰まりを起こさなかったら、これにぶつかっていたかもしれない。助かったわぁ、と。

 相馬市に入ったら、塀が倒れていたり、家が壊れていたり。税務署に着いたら、書類はメチャクチャに落ちていて、職員が右往左往しているんですよ。

 「すみません、確定申告の書類で」と言ったら「後で」と言われた。そこで「いやいや、廃業手続きはどうしたらいいんですか」と、相談したんです。手続きの紙をもらいました。ちゃんと応じてくれました。

 次に社会保険事務所に行きました。「国民年金の証明書がほしいんです」と言ったら「停電でパソコンが動かない」と言われて、初めて停電だと分かった。税務署でも電気はついていなかったんだけど、停電だとは思ってなかったんです。

 飯舘村を出るときから車のガソリンがギリギリだった。いつもガソリンを入れるスタンドが鹿島(南相馬市鹿島区)の国道6号にあるんですが、停電だと聞いたので、飯舘村に戻ろうと考えを変えました。

 帰りは、国道115号バイパスがすごい車だった。私が相馬に入ったころはまだ、津波は来てなかったんです。帰りは津波が来た後だった。でも、私はその車の列を見て、国道6号が地震でやられたと思った。津波は全然、考えてなかった。

 落石はどうなっているかと思いながら走っていたら、1時間半ぐらいの間に、なくなっていた。本当に驚きましたよ。後で、役場に行ってほめたんですよ。「見事に石がなくなっていた」って。

 (東京新聞 2014年4月30日掲載)

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東京新聞②

~あの日から~語り継ぐ ①

  2011.3.11 14時46分、東日本大震災発生。、3月15日飯舘村の放射線量上がる。 3月30日IAEA(国際原子力機関)が飯舘村の土壌汚染は避難が必要と発表。 4月11日枝野官房長官が計画的避難区域を予定していると突然発表。 4月22日計画的避難区域の指示。 6月4日幕川温泉に一次避難。 7月2日福島市松川町の借上げ住宅に落ち着くと、ここまでの日は私にとって特別な日となって、3年を過ぎた今も鮮明に覚えています。しかし、これも時間とともに薄れてしまうのかも知れない。嫌な思い出には封印をしたいところだが、一方では、この避難のもたらした功罪をいつかの時点で検証してほしいと思っている。そのためにも、自分の行動をまとめておきたいと思っていたら、東京新聞からチャンスをいただきました。4月29日から6月4日まで20回にわたる連載「あの日から~福島を語り継ぐ~」に登場しています。

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東京新聞①

【第1回 飯舘村で震災に遭う】

 東日本大震災の前日、2011年3月10日から福島県飯舘村に帰っていました。当時、夫が県立岩瀬農業高校の校長で、鏡石町の校長住宅に住んでいました。自宅には、じいちゃんとばあちゃんがいました。

 私は前年6月まで自営業をやっていて、15日までに確定申告をする必要があったんです。11日に相馬市にある税務署へ行く予定でした。夜中までかかって月別の整理をしました。それから寝たんです。

 11日は午前中に見直して、印刷。午後2時までには家を出ようと考えていたんです。そうしたら、プリンターが紙詰まりを起こしてしまって。頭に来たんですが、なんとか直して、やっと印刷が終わったのが2時40分ごろです。書類で足りないものがあった。控除のための国民年金の証明書。廃業手続きについても、税務署で聞かなければいけなかった。だから、提出は無理と分かっていた。それでも、書類をまとめて、さあ、税務署に行くぞ、という時にガタガタッと来たんです。2階にいたので、激しく揺れました。

 確定申告の書類は完成していないわけです。プリンターが壊れたら、困るんです。だから、揺れている間、必死になってプリンターとパソコンを押さえていました。5分ぐらいは揺れていましたね。

 ひどく揺れたんですが、うちは何事もなかったんです。お隣のうちの人も元気でした。出がけに見ると、庭の石が一つ、ごろんと落っこちてました。それを見て結構、強かったんだな、と思ったぐらいです。揺れがおさまってから、車で相馬市へ行ったんです。

 出るのが遅れたので、税務署に着くのは午後4時ごろだろうと思いました。それでも廃業手続きの話が聞ければ、と考えたのです。

 (東京新聞 2014年4月29日掲載)